親がどのくらい子どもに心をかけているか。子どもの手をみるとよくわかります。過保護に育てられた家の子どもの手は動かないからです。
心をかけることと、過保護は違います。
手は第二の大脳といわれ、子どもの精神生活に密接に結びついています。
子どもの知能は手を使わなくてもある水準までは達することができますが、手を使うことによってさらに高いレベルに到達し更に、強い性格を有する子どもに育ちます。
モンテッソーリは手を動かすことの重要性を繰り返し説いています。
手を使って感覚に働きかける段階をもたない子どもは幼稚な段階にとどまってしまうとも語っています。
あまり手を使わずに育った子どもは、何かに接した際、心を動かすことに乏しい。ともすれば無感動な心を育んでしまう場合もあるのです。
洋服でも下着でも自分でたたませることが大事。
パンツ一枚なのか、上着一枚なのか。「僕はこれができて満足」という度合いは子どもによって異なりますが、子どもにとって、「自分でできた!」という感動ほど尊いものはありません。
その感動は、手を動かすことによって導かれるのです。
その感動にめぐりあうには時間がかかる。
時間がかかっても慌てずに、見守ってあげてください。
その感動から生まれた好奇心は、さらに思いもかけない素晴らしい出来事を連れてくることが多々あります。今日はそんな素敵な出来事のひとつをみなさんにご紹介しましょう。
3歳になったばかりの女の子がある日、先生から「縫うお仕事の玉止め」を習いました。「自分で縫えた」という喜びはひとしおだったようで、私のところへ見せに来てくれました。
「よくできたね」と私は褒めました。
するとまた一生懸命、縫い始めました。
再び「先生、みて」と近づいて来た時、私が別の子の相手をしていたものですから、ちょっと怒ったように拗ねて、「もういいよ」と直に席に戻ってしまいました。席についてふたたびおとなしく作業をしている様子でしたので、私はすっかり、その子はまた、こぶ結びの作業に没頭しているのだと思っていました。
ところが違いました。
彼女はこぶ結びが出来なくてセロテープをカットしては貼るという作業に没頭していました。
テープをカットしては貼り、カットしては貼り。繰り返し、繰り返し端から端まで。まるでセロテープで縫い目を留め合わせることで、「自分が縫えた」という喜びそのものを封じこめているかのようでした。
私は驚きました。縫い目がほどけないように、より確実な状態にするために、セロテープを使うことを3歳の子どもが自ら発見した。
そのことに、私は心から感動したのです。
尊い知恵が彼女に芽生えた瞬間を見逃してしまった私は彼女に詫びました。
「ごめんね。先生、間に合わなくて」
その時の、その子の誇らしげな顔といったら!
手を動かすことは素晴らしいことを連れてくる。
まさにそのことを実証する、素晴らしい瞬間でした。